明徳寺 曹洞宗 関屋 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 龍潭山(りゅうたんざん) ③由緒 源関神社所蔵の応永十二年(一四〇五)の棟札(むなふだ)に明徳寺の名が記されており、同社の別当寺であった。寺伝では、明徳元年(元中七年、一三九〇)越後国刈羽郡本福院の五世の弟子妙徳がこの地に来て、一寺を建立し、明徳寺と号したと伝えている。明応(めいおう)十年(一五〇一)、保科の広徳寺三世玉山春洞により、曹洞宗として再興され開山となった。天正(てんしょう)十年(一五八二)、海津城将村上景国は同寺に寺領を安堵(あんど)させ、薬師堂の建立をおこなった。慶長十六年(一六一一)松代藩主松平忠輝は、寺領二〇石を寄進し、ここに明徳寺の基礎が定まった。正徳(しょうとく)二年(一七一二)四月、火災により寺堂を焼失したが、翌年九月に再建された。江戸時代を通して藩主真田家の保護をうけた。明治に入り、庫裏(くり)の一部が草創期の豊栄小学校として一時期使用された。昭和二十七年(一九五二)庫裏の改築、同三十八年五月本堂、山門の改修、弥勒(みろく)堂の修繕がおこなわれた。初夏、境内の庭池での、産卵期を迎えたひきがえるのようすが蛙合戦として知られている。墓所には高坂弾正(こうさかだんじょう)とその臣小池主計(かずえ)、太平洋戦争で玉砕した硫黄島軍の司令官栗林忠道大将らの墓がある。なお、慶長四年の「寺領安堵状」ほか六通の古文書が、昭和五十六年八月十七日長野市文化財に指定された。
虫歌観音堂 真言宗 宮崎 ①本尊 千手観音 ②山号 虫歌山 ③由緒 古くは豊栄村にあった引虫寺(古くは虫取寺)であったという。引虫寺は真言宗福徳寺の末寺で明治初年に廃寺となり、以後福徳寺が管理している。本尊は、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が天皇の命をうけて当国に下向のときの作と称され、征夷大将軍坂上田村麻呂の東夷(とうい)征討の祈願によって大同(だいどう)元年(八〇六)に建立されたという。また一説には、福徳寺六世の快雄法印が霊夢に感じて、天文(てんぶん)十三年(一五四四)七月十七日、第七世長善法印に福徳寺を譲り、虫歌山に虫歌寺を建立したという。
永禄三年(一五六〇)に焼失した。本堂は天保(てんぽう)六年(一八三五)の再建、仁王門は正徳四年(一七一四)の建立である。いつのころからか、養蚕守護神として多くの人びとに帰依され、八月九日の縁日には近郷からの参拝者でにぎわった。信濃三十三番観世音七番札所である。