近世初期の慶長七年(一六〇二)の「信濃国川中島四郡検地村立之帳」によれば、平林村二六六石余、関屋村三一四石余、桑根井村一二六石余、牧内村一三八石余とあり、これが豊栄地区の村としての初見である。明和六年(一七六九)の藩の調査では、同地区内の村々の枝村は、平林村には越村の一ヵ村、関屋村には南北淵村・宮村・赤柴村・新屋村の四ヵ村、桑根井村には北小淵村の一ヵ村があり、牧内村には枝村は存在しなかった。いずれの村々も、それぞれ高一〇~二〇石余の新田を有していた。
松代藩の領地は、蔵入地(藩直轄地)と知行地(藩士にあたえられた領地)に分かれ、その分布は蔵入地だけの村、蔵入地と知行地の混在した村に分けることができる。蔵入地の支配は、郡奉行-代官・手代-同心という支配組織機構によっておこなわれていた。各村では、この下で村方三役が村政に当たった。いっぽう、地頭による知行地の支配は、地頭の任命した現地の農民のなかから選ばれた蔵元(本)が年貢事務をおこなった。蔵入地と知行地を一括した検地帳が作成され、本年貢は同率であった。享保(きょうほう)十八年(一七三三)の「御領分村々本田新田御高帳」によると、領内二五五ヵ村は八人の代官に支配されており、平林村は代官石倉伊右衛門が、桑根井村と牧内村は代官近藤喜左衛門が、関屋村は代官大日向七右衛門が手代とともに支配していた。
城下に接する豊栄地区からは、在郷足軽衆が採用されている。足軽は、在村して城下に通勤する蔵米取家臣であり、奉行の下で事務を担当したり軍兵ともなった。慶応二年(一八六六)、「御足軽住所帳」によれば、関屋村三九人、桑根井村五人、平林村一二人、宮崎新田三人、牧内村一三人が在勤している。藩は、領内の要所や領界に口留(くちどめ)番所を設けており、関屋村にも関屋口留番所が置かれた。この役人は同村出身の足軽が勤めた。また、郡内には法度(はっと)や掟(おきて)などを領民に知らせるための高札場が七ヵ所あり、関屋村にも高札場があった。