農民構成と年貢の負担

455 ~ 456

寛文(かんぶん)六年(一六六六)の「指出(さしだし)検地帳」によると、関屋村には三三人の農民が記されている。これらの農民を土地所持高の面からみると、一石未満の農民は一人で、五石から九石までの所持者は九人、また、二〇石から三〇石までの農民は一人で、一〇石から一九石内の所持高者は二二人で、大多数の農民が占めており、全体の六七パーセントがこの階層に属している。桑根井村の一九人の農民の場合をみると、土地所持高一石未満の農民は一人、一石から四石までの農民も一人、五石から九石までの土地所持高の農民一二人、一〇石から一九石までの所持高農民は五人で、桑根井村の場合は六三パーセントが五石から九石の所持高層になっている。欠村の農民は七人で、全員が一〇石から一九石の所持高層に位置している。すなわち、このときの検地によれば、桑根井村を除くと農民の土地所持高は一〇石から一九石の階層のものが多い。この時期の農民構成をみると、「一打(いちうち)」(本百姓)とこれに所属した「判下(はんした)」(下判)百姓とに区別される。判下のなかは、別家、合地(あいじ)(相地)、帳下、加来(からい)、地下(じげ)などと呼ばれるものがあった。関屋村は総家数一四五戸のうち一打数が一三四戸で九二パーセントを占めている。平林村は六〇パーセント、桑根井村は八一パーセント、牧内村は九五パーセントとそれぞれ一打が多い。

 元治(げんじ)元年(一八六四)の関屋村の年貢納入について「子(ね)御年貢免相土目録」からみると、まず、関屋村の年貢の対象石高は、本田高が三一九石余と示され、そこから税の対象外となる荒地や災害などによる石高の合計高一二五石余が差し引かれ、残高が一九四石余となる。これにたいして年貢率五ッ九分免(五割九分)が賦課される。ほんらいは年貢率は六割一分であるが、酉年(とりどし)(文久元年、一八六一)にさかのぼって五ヵ年間にわたり二分の御手当分を差し引き、年貢は五割九分とするとした。納税石高はここで俵に換算される。したがって、この年に納める年貢籾(もみ)=本口籾(本年貢と口籾)は四七一俵余となる。ほかに、新田二〇石がある。その免租の高は一〇石(山抜・川欠などの合計)で、この分が差し引かれる。残高一〇石にたいして新田への年貢率は、二ッ九分(二割九分)で、納めるべき税は籾一一俵余となる。本田・新田の本口籾は合計四八三俵余となる。このほかに雑税として山年貢、その他荒地開発のため籾六俵、五年間にわたり本年貢を下げているのでその分の三俵、家作があったので二升、その水車の営業の税など合計五六引俵余が賦課される。したがって、元治元年の関屋村で藩に納入する総籾は五四〇俵余である。村方三役は村内の本百姓に土地所持高に応じて年貢を割りつけたのである。