近世中期以後に人ると、藩は養蚕業を奨励し推進するため、農民の宅地や田圃(たんぼ)の畦畔(けいはん)にも桑を植えることをすすめた。文化八年(一八一一)、藩は更級郡小網(おあみ)新田村(埴科郡坂城町)の吾妻(あがつま)銀右衛門と埴科郡鼠宿村(同町)の伝八郎の二人を桑苗御用係(桑苗養成御世話)に任命した。文化十年、藩は吾妻銀右衛門に藩の関屋御林の萱野(かやの)場に二万坪の桑畑を開発するように命じた。その「請書計画」によると、その開発人夫は五五〇〇人(賃金は一八三両一分余)、桑苗は八万本を植え、小屋一軒を建てる。その総計金は二四〇両一分余であり、翌年の春までに完了させる。それ以後の桑畑の耕手や桑植などの維持は、文化十一年から一〇年間で八〇〇人の人夫でおこなう。桑苗の出荷は、文化十二年に一二〇〇束、同十三年には六六〇〇束、それ以後毎年一万束を文政六年(一八二三)までおこなうという内容であった。
しかし、藩は二万坪開発計画を縮小し、開発人夫七三二人、飯焚(めしたき)人夫三〇人、その他開発道具や日常生活用具等で総合計金二六両一分余で萱野場の地一万坪を開発することになった。その後、この地に移住するものもおり、やがて一村を形成するようになる(矢崎新田)。同十四年に入ると、桑苗の販売が軌道にのりはじめた。関屋御林産物御用掛の吾妻銀右衛門が藩の勘定奉行へ提出した「桑苗幷桑御払頂戴人別御書上帳」によれば、松代本町の惣三郎は苗木三〇〇本を九〇〇文で、横尾村(坂城町)の伴左衛門は一四〇〇本を四貫二〇〇文で、また欠村の弥作は九〇束を代金一両一分でそれぞれ購人している。同十五年には、さらに一万坪の開墾計画に着手し、同年中に六五〇〇坪を開き、ここに二万六〇〇〇本の桑苗を新たに植えることができた(白石新田)。桑の種類は小網早生(わせ)で、御林桑といった(『松代町史資料』第二集)。