赤芝の銅山開発

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松代町豊栄地区赤柴に赤芝銅山があった。鉱脈は数条あって、そのなかに信玄坑と称するものがある。これは、天文(てんぶん)年中(一五三二~五五)武田信玄がこの地方を領有していたとき、採掘を試みたと伝えられている。真田氏が延宝(えんぽう)~享保(きょうほう)年中(一六七三~一七三六)に、この鉱山の採掘をおこなったとのいい伝えがあるが詳しいことはわからない。文化五年(一八〇八)埴科郡中之条村(埴科郡坂城町)の横尾甚四郎は、松代藩に採掘を願いでて、文政~天保(てんぽう)年間(一八一八~四四)に採鉱をおこなった。このときに採鉱された銅は、藩の大砲の鋳造に使用された。また、藩を通じて、幕府の御用銅や御用銀として一部は買い上げられた。銅山経営にあたって、もっとも必要であった炭は、近隣の林からだけでは十分ではなく、上田藩上洗馬(かみせば)村(小県郡真田町)の入会山や北上州田代村(群馬県嬬恋(つまごい)村)から買い入れてまかなった。銅鉱は良質ではあったが、鉱脈が細く、一ヵ月の産出額は数十貫にすぎなかった。嘉永(かえい)年中(一八四八~五四)藩は藩費を投入して増産をはかったが、十分な採算がとれずその後一年間で採鉱を停止した。一日平均一人の採掘目標は七貫目掘り取りで、この責任を果たしたもののみに給金が支払われた。明治十年(一八七七)上原重次郎により、大正三年(一九一四)富倉林蔵により採掘がおこなわれたが、いずれも一年以内で廃鉱にいたった。