人びとに愛された地蔵峠

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『源平盛衰記(じょうすいき)』や『吾妻鏡』の記事のなかに、「保科宿大室」「東条荘」「関屋」「植田越」などの地名が見えている。これらの地名は、当時この地域では、重要な地点であったことを物語っている。このなかで植田越は上田越とも書き、地蔵峠の古名と伝えている。松代町にある日蓮宗蓮乗寺(れんじょうじ)の寺伝によれば、文永(ぶんえい)八年(一二七一)十月、日蓮が流罪となり佐渡におもむくとき、また、同十一年二月許されて鎌倉に帰るおり、この地蔵峠を越えたという。地蔵峠は、古くから小県郡と北信濃を結ぶ最短の道として利用され、また、峠からは上州吾妻(あがつま)郡へも通じており、交通の要衝であった。

 天文(てんぶん)十九年(一五五〇)九月、武田晴信が村上義清攻略に先だって砥石(といし)城を攻めたさい、真田幸隆を北埴科へ遣わし、同二十二年、幸隆に尼飾(あまかざり)城を攻撃させたのも、北信と東信を結ぶ要地である往還道を確保するためであった。近世に入ると、上田城下と松代城下を結ぶ松代道として、また、北国往還の脇道(わきみち)として重要な役目を果たした。『千曲之真砂(まさご)』(宝暦三年、一七五三に成立)に「この山の嶺(みね)に石地蔵が有り、ここまで袮津から五里余である。この山の嶺は小県・埴科の両郡の境である」と記してあり、宝暦三年以前にすでに石地蔵が祭られていた。このため、いつの世にか地蔵峠と称せられるようになった。寛政年間(一七八九~一八〇一)には峠の開発がすすみ、物資の動きは活発になった。北国往還道の宿場はこの影響をうけ、地蔵峠の通行はきびしい規制を受けることになった。中馬(ちゅうま)の荷物も炭・薪・米穀も口留番所の許可を得ないと通ることができなくなった。

 弘化(こうか)三年(一八四六)八代藩主真田幸貫(ゆきつら)は、江戸城勤務から帰藩のおり、この峠を越えて帰ってきている。また、幕末、松代藩士佐久間象山も勉学のため、この峠を越え、岩門(いわかど)村(上田市)の大日(だいにち)堂、ついで常田(ときだ)村(同市)の毘沙門(びしゃもん)堂の活文(かつもん)禅師のもとに通ったと伝えている。

 明治に入って、松代町士族児玉・矢島両氏の努力で難路が改修され、明治十二年(一八七九)開通式をおこなった。大正九年(一九二〇)、郡道となり、同十一年に県道に編入された。自動車の発達に伴い車の通れる道として、昭和三十七年(一九六二)から七年の歳月をかけて新道が開かれ、県道長野真田線として同四十三年九月に開通式がおこなわれ、新地蔵峠が誕生した。同五十一年新地蔵峠頂上近くに開通を記念して交通安全を願い、新たに地蔵尊が建立された。


写真6 地蔵峠からの長野市遠望