松代藩領内には、他領との境界に二〇ヵ所の口留番所が設けられており、埴科郡内では関屋村と鼠宿村(埴科郡坂城町)の二ヵ所に設置されていた。その任務は物資や人の出入りを監視統制することにあった。寛文(かんぶん)七年(一六六七)、藩が関屋口留番所に出した「口留番所取締触書」によると、物資の流通について酒、煙草、漆木(うるしぎ)、竹などの品は、かならず許可をうけること。治安の面からは、長脇差を所持するもの、あやしきもの、乞食体などのものがいたならば、質(ただ)して、疑いのあるものは召し捕らえるようにと命じている。現実には地蔵峠を経る物資のなかには触書に反するものも多く、なかでも中野・小布施・須坂方面からの宿次(しゅくつぎ)商人の荷物の中に多かった。北国往還の宿場側からは、おりおり違反者がいるとの抗議があり、ときには訴訟におよぶこともあった。
弘化四年(一八四七)、善光寺地震のおり、平林村名主左太郎らは、食糧確保のため口留番所の「通過願」を郡奉行に提出して許可されている。その願いの内容は、「上田領岡村(上田市)の五十兵衛(いそべえ)から白米一五〇石を仕入れ、村内の業者に一〇〇石、西条村の会津屋へ三〇石、同村の小川屋へ二〇石を割り当てて販売するため」としている。地震など緊急を要するときには、地蔵峠越えの許可は緩やかであった。現在、口留番所のあったところは御番所とよばれている。