皆神山に地下壕を掘る

463 ~ 464

昭和十九年(一九四四)、日本の敗色が濃くなるなか、陸軍は本土決戦にそなえ、大本営の移転をひそかに計画し、その場所を松代に決定した。当時は、長野県をはじめ松代町や近隣の村役場へは、松代に軍用倉庫を建設するとの話だけであった。「松代工事調書」によると、大本営等の工事概要は、イ号倉庫から始まりリ号倉庫までの九つの倉庫を造るための地下壕の掘削と建物等の建設の工事である。豊栄地区は、この工事計画ではハ号倉庫の建設地にあたった。具体的には、皆神山の東側山すそに倉庫地下壕の掘削をすることであった。その使用目的は軍令部が入る予定であったが、工事の進捗の結果、食糧倉庫地下壕とすることになった。同年十月四日、豊栄村役場より平林、桑根井、牧内の三地区へ、皆神山東南に山林・畑のある土地所有者は西条小学校に参集するようにとの通知があった。軍部指導者から「諸君の村が世界史の輝かしい一ページを飾るときがきた。軍は内地決戦の非常体制下、必要によりこの地方に軍の施設をつくることになった。諸君はすべてをお国に捧げ、以下述べるべき処置にすみやかにしたがっていただきたい。そうして、軍が必要に応じてこの村の田、畑、山林等を買い上げることになる。その場所には竹を立て目印をして置く」ということであった。竹が立てられたのは、平林組より皆神山道の東方、桑根井-平林線北側、桑根井-牧内線の西側の畑と山林であった。

 数日後、桑根井-平林線、牧内-桑根井線は道路が拡幅され、大型トラックで大量の材木が運びこまれ、徴用の大工数十人らにより一週間ほどで宿舎、飯場などのバラックが三棟建築された。この工事は、鉄道地下建設部隊が担当し、その作業には、西松組作業員、朝鮮人労務者が当たったほか、各町村から徴用された青壮年のものが約一五日間ごとの交替でこれに加わった。敗戦で、松代大本営工事は中止となった。買い上げられた山林・畑は全部所有者に返還された。大本営の松代移転は幻となったのである。