松代藩の学問が宝暦年間(一七五一~六四)に盛んとなった影響で、この地域にも庶民のための教育が、天明ころから文化・文政・天保期に盛んとなった。
地区内には、寺子屋師匠の筆塚が二基ある。その一基は、源関神社の神官長谷部大隅(おおすみ)の徳をたたえ、万延(まんえん)元年(一八六〇)八月二十二日に造立されたものである。長谷部は、寺子屋を開き読み書き・習字を教えていたという。筆塚は、源関神社の側を通る県道長野真田線の南の地にある。他の一基は、宮崎虫歌観音堂境内にある。その銘文は「なき跡も契(ちぎり)かわす群鳥のつとひて謡(うた)ふ声なたゆみに 信定」とあり、左面には、信定は勢州度会郡山田(三重県伊勢市)産と刻まれている。文化十二年(一八一五)、皆神神社神官の家に生まれた内山鹿守は、牧内に住んで寺子屋の師匠として読み書き・習字を教え明治初期に日進学校が設立されると、ここで教鞭をとった。また、平林の佐竹周蔵は同村で寺子屋を開いた。かれの墓は明徳寺にある。森日向(ひゅうが)は、文化十四年桑根井に生まれた。家は、代々、桑根井神社の神官で、学問を父から学び、博学の誉れが高かった。寺子屋を開いて、読み書き・習字を近郷の子弟に教えた。井野口権九郎は、宝永六年(一七〇九)桑根井で生まれ、武術家として知られた。享保(きょうほう)二十一年(一七三六)二八歳で正継流棒術を修業し、太矢重意より免許皆伝をうけ、剣士として北信地方に重きをなした。その門弟は千二百余人におよんだ。権九郎はみずから棒を投げて、その棒が地上に落下すると同時にその地点にいたって端座していたという。瀧澤登愛は宝暦九年(一七五九)赤柴に生まれた。更級郡赤田(信更町)の武芸家大矢弥五兵衛に師事し、直伝本流を修業して奥義を究めて、その二五代を継いだ。文化年間(一八〇四~一八)全国を武者修業し、同八年故郷に帰り、赤柴山下に道場を開いた。その門人は三百二十余人であった。富田賢兵衛は、天保(てんぽう)九年(一八三八)平林に生まれ、書と小笠原礼式を佐竹高教に学んで、弘化三年(一八四六)折形(おりかた)免許を得た。その他文学・算術・剣法・柔術などそれぞれの免許を得て、近郷の子弟に、柔術・枡形・礼式・算盤(そろばん)・漢学・謡曲などを教えた。