この石は権九郎石とよばれ、平林の村北地籍にある。皆神山旧参道入り口にあったが、圃場(ほじょう)整備のため現在の地に移された。石は高さ一一〇センチメートルほどの三角形の自然石である。そのそばに石仏が一基ある。その石仏の右側に「享保(きょうほう)六夭□□」とあり、左側には「十月十七日五人」とある。この石が建てられたいわれは、つぎのように伝えられている。
桑根井村の武術家井野口権九郎(一項参照)の高名を聞いて、一人の山伏らしい武芸者が試合を申しこもうと、はるばる訪ねてきた。ちょうどこの石の建ててある場所に来たとき、上の方から武術家らしい人が歩いてきたので「拙者は井野口権九郎なるものを訪ねてきたが、そのものの家はどこか」と尋ねると、その人物は「拙者が井野口権九郎であるが何の用か」と聞き返した。武芸者は「貴公の高名を承って参ったが、試合をお願いしたい」と申しこんだ。権九郎は承知し、早速この場所で試合をすることになった。旅の武芸者は「勝負はいずれが勝つか負けるかわからぬが、もし、不運にして拙者が負けたら骨をこの場所に埋めてくれ。もし、拙者が勝てば貴殿をこの場所に埋めてやろう」と約束して試合をおこなった。勝負の結果は権九郎が勝ち、約束どおりねんごろに相手をこの石の側に葬った。その後、その霊を慰めるため石仏を石のかたわらに安置した。この石はあらたかな石で、もし、粗末にすればたたりがあると伝えられ、平林の人びとはみな、この石を大切にしている。大正期に、あるものがこれは迷信であろうと思い、この石につばをかけて皆神山に登りはじめたところ急に足が痛みだした。山を下りるときに、つばをかけた石を丁寧に洗い清めて石に詫びたところ、足の痛みがとれたという。