戦後の農村の民主化の第一歩は農地改革であった。昭和二十一年十月に第二次農地改革法が実施された。その要旨は、不在地主の小作地はすべて解放する。すなわち、戦前の日本農業を支えた地主制を廃止し、自作農を創設することにあった。豊栄村にも、改革を実施するための農地委員会が、小作五人、自作三人、地主二人の計一〇人で構成された。豊栄地区には特別な大地主といえるものはなく、ほとんどが耕作農民地主であり、また、委員会の努力もあり、実施は順調に進んだ。
豊栄村の農地総面積は、田地が四四・四町、そのうち、解放対象面積は六・六町で、わずか一五パーセントにすぎなかった。畑地は総面積二〇二・七町、対象畑面積は九〇・七六町で、四五パーセントであった。じっさいに売り渡された面積は、田地は一〇〇パーセント畑地は九〇パーセントに達した。農地の価格は、水田が賃貸価格の四〇倍、畑は四八倍で、倍数は高いが価格はきわめて安く、この地方の水田一反歩当たり一〇〇〇円前後にすぎず、闇米一斗の値段にもおよばなかった。買収農地も比較的少なかったため、買受代金も大部分は現金の一時払いで決済された。農家は、ほとんどが自作農または自小作農となった。昭和二十三年には、農業の総合的な近代化をめざして、農業協同組合が、同二十六年には農業委員会が発足した。