豊栄村は、地形上傾斜地が多く水田耕作には限度がある。幕末からの藩の政策もあり、養蚕業がさかんとなった。明治十年(一八七七)代、赤柴に豊栄製糸場、平林に松井社などの製糸場が操業をはじめるなど、養蚕は副業から正業へと変わっていった。このため、山間の傾斜地にまで可能な限り開墾がおこなわれて桑園化され、養蚕はもっとも重要な産業となった。製糸産業は輸出を基本とする産業であったので、たびたび世界経済の景気の動向に左右され、不況の影響をうけることも多くあった。養蚕業は、昭和四十年ころまで、農家の現金収入のなかでもっとも高い位置を占めていた。
昭和三十六年、日本は農業基本法を制定し、農業立国から工業立国への転換をはかる。養蚕農家は、中国産の安い生糸の輸入、農村の労働力不足などにより、他の換金作物への転換を余儀なくされ、衰退の一途をたどった。多くの養蚕農家は兼業農家となった。現在、一四戸の農家が養蚕に従事している。かつての桑園には杉などの植林がおこなわれた。昭和三十年ころより養蚕の副業として始めた冬期間のえのき栽培は、その後、栽培法の改革、経営の合理化、機械化による技術改善がおこなわれ、各生産者も量産体制ができるようになり、年間を通じて生産品を出荷している。
昭和三十九年、ホップ栽培者が一九人と増え、その耕作面積は二町五反となった。関屋集落では、耕作者全員で収穫から乾燥までを源関神社の境内でおこなった。