松代群発地震おこる

472 ~ 474

昭和四十年八月三日、筒井の気象庁地震観測所に新設されたばかりの国際標準地震計に、ごく近くで発生したと思われるきわめて微小な地震動が三回記録された。六日には有感地震が記録され、日を追うごとに地震回数は増加しはじめ、群発性の地震が発生していることが知らされた。

 この地震は、震源域やその特徴などから五つの活動期に大別されている。この最初の地震を記録して以来、昭和四十四年三月三十一日までの地震総回数は六九万八三〇六回におよんだ。松代のみについてみると震度5の強震は九回、震度4の中震は三九回が記録されている。日に何度となく襲う地震が、その消長はあれ三年以上もつづいた現象は、世界の地震史上において類例のない事態として国内・国外に大きな関心を呼んだ。同四十一年五月十九日には、佐藤栄作総理大臣一行が松代町を訪れ、町内のようすを視察し、プレハブ校舎の小学生の声などを聞いた。総理大臣が町内を視察していたあいだは、一度も強い地震は起きなかった。また、同年七月二十六日には、皇太子殿下が松代町においでになり、天皇陛下のお言葉を伝えられた。

 地震による死者はなかったが、重傷者二人が出た。全壊家屋は第二・第三期活動期に発生している。昭和四十一年九月十七日の地震は、牧内地区に地すべりが発生し、五棟が流れだした土砂に押し潰(つぶ)された。豊栄小学校は、木造二階建て校舎一五〇〇平方メートルの東西の主要柱に亀裂が生じ、二階の梁(はり)が落下するなどの被害が出た。松代高校の木造建て図書館も倒壊した。農業関係では悪水が湧出して用水に流入したため、耕地は塩素害をうけた。また、えのき茸栽培用のびんの落下・破損で大きな被害をうけた。

 松代群発地震は、松代地区をはじめ北信地域七〇万の住民に不安と苦しみをあたえた。一四億円をこす被害を出しながらも死者はなく、火災も起こらなかったのは、住民の緊張度の高かったことを物語っている。


写真11 松代群発地震による牧内地区の地すべり