三郡五ヵ村の合併

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明治四年(一八七一)の廃藩当時、寺尾地区は、埴科郡の東寺尾村・柴村、高井郡の大室村、更級郡の牧島村・小島田村のうち釜屋(かまや)・荒屋(あらや)の二集落で、三郡五ヵ村にまたがっていた。大区小区制では、それぞれの郡ごとに東寺尾村と柴村は一三大区八小区、牧島村と小島田村は一六大区六小区、大室村は川田村とともに一七大区二小区に属した。明治二十二年の町村制の実施のさいも、埴科・更級両郡長はこの小区ごとの合併案を、上高井郡長は大室・川田・牛島村の三ヵ村合併案をそれぞれ提示した。これにたいして牧島村は、「更級郡ではあるが、千曲川右岸に位置して柴村や大室村との関係が深いので、むしろ小島田村のうち川東にある釜屋・荒屋の二集落をふくめ、柴村・東寺尾村・大室村・牧島村の四ヵ村二組との合併が望ましい」と答申した。他の村々もこの案に同意し、小島田村もこの二組の分割に異議がなかったので、明治二十二年四月一日、三郡にまたがる五ヵ村が合併して寺尾村が成立した。郡は埴科郡に所属することになり、村役場は柴に置いた。合併計画書には、「地形上自然の区画であり、治水事業でも一致する。(略)三郡の合併ではあるが、折り合いはよい」と書かれている。寺尾村は六六年間つづいて松代町と合併した。

 関崎には四郡畑とよばれる畑があり、その畑一枚に水内郡をふくめて四郡の地籍があったといい(「飯島家記」)、大室には三郡の境界に郡境石という石橋があったという(『町村誌』)。犀川・千曲川二大川の合流点にあって、洪水や瀬替えにより境界が移動したことを示している。