寺尾郷は戦国時代には諏訪神社の頭役を勤める郷村であった。永禄(えいろく)五年(一五六二)、武田信玄は寺尾郷に諏訪上社の頭役を命じている。同九年の上社「祭礼再興次第」によると、寺尾郷の造宮役は七貫五〇〇文であった。また永禄~天正(てんしょう)年間に上社不開(あかず)之門の造宮銭を負担したが、天正十年(一五八二)には、「天下大乱ゆえ勤めず」と、戦乱のために勤仕できなかったことを記している。
寺尾郷は、慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の「四郡打立帳」には、埴科郡寺尾村と更級郡西寺尾村とに分かれている。東寺尾村の史料上の初見は、元和(げんな)四年(一六一八)の「酒井忠勝知行目録」である。