城跡は標高四五〇メートルの城山頂上にあり、中世寺尾氏の城といわれる。本郭の周囲は土塁(どるい)で囲まれ、前後の尾根上にいくつかの郭(くるわ)がならんでいる。三方が切りたった崖(がけ)で、東方が尾根つづきに尼巌(あまかざり)山へ通じており、尼巌城の支城でもあった。尾根上に馬場跡とよばれる小平地がある。
寺尾氏は古くからこの地域に勢力をもっていた。永享(えいきょう)十二年(一四四〇)の「結城(ゆうき)陣番帳」には、保科氏・西条氏らとともに陣番を組んでいる。代々英多郷中条(ちゅうじょう)の地頭として諏訪(すわ)上社御射山(みさやま)・五月会(さつきのえ)などの頭役(とうやく)を勤めている。川中島合戦当時は早くから武田方に味方したため、天文(てんぶん)十九年(一五五〇)、高梨政高・村上義清の連合軍に攻撃され、武田信玄の命をうけた真田幸隆が寺尾城救援にかけつけている。武田氏滅亡後は上杉方に属し、天正十年(一五八二)には寺尾伝左衛門が上杉景勝(かげかつ)から所領を安堵され、須田満親(みつちか)にしたがって、荒砥(あらと)城(上山田町)に在番した。上杉氏の会津移封(あいずいほう)のさいは一六五〇石であった。
寺尾城の本郭跡には、「寺尾殿之墓」と刻んだ墓碑がたっている。東寺尾に、北堀・金堀・屋敷の地名が残り、寺尾氏の居館跡だとされる。