山本勘助の墓

491 ~ 491

柴の千曲川原にある。以前は南方の高畑にあったが、元文(げんぶん)四年(一七三九)、松代藩家老鎌原(かんばら)重栄が現在地に移建し、文化六年(一八〇九)に子孫の鎌原重賢が修復した。もと柴阿弥陀(あみだ)堂の境内であったが、大正年間の千曲川堤防工事のさい、阿弥陀堂は移転し、墓は河川敷に残された。山本勘助は俗に武田信玄の軍師と伝えられ、川中島合戦の作戦の失敗の責任をとって討ち死にしたといわれる。従来その実在を疑われていたが、戦後「市河文書」の新たな発見によって、信玄の側近に「山本菅助」が実在したことが明らかになった。この地が川中島古戦場であった名残である。