松代城下の東に接する街村で、松代町との境に木戸(釘貫(くぎぬき)門)があった。村の中央を北国街道松代通りが貫通し、街道の両がわに寺が並ぶ。東には鳥打峠を控えており、西は寺尾渡し、北は柴村への分岐点で、三本松に道しるべが立てられていた。鳥打峠の中腹には松代藩の仕置き場があり、また萬法寺の裏には千曲川から運河が引かれ、松代藩の船着場や船会所があった。村は蛭(ひる)川・藤沢川の下流にあって、しばしば洪水におそわれたので、村民は川除(かわよけ)大神宮を勧請(かんじょう)して祭った。
村高は、『慶長打立帳』では六四三石、『天保郷帳』では八五〇石と増えている。『正保郷帳』では六四八石余であるが、そのうち田はわずか二八石(四・三パーセント)にすぎず、大部分は畑であった。藩士の知行地はなく、全村みな藩の直轄地であった。文化十年(一八一三)、村役人の選出について騒動があり、惣百姓による入札(いれふだ)(投票)にすることとしたが、頭立(かしらだち)の三人が反対して代官所へ訴えでるという事件を引きおこしている。
牧内村に一三ヵ村の入会山があり、東寺尾村は山札六七枚をうけて利用したが、宝暦六年(一七五六)割り山にした。五五軒で割って人別持ち山とし、場所はくじできめた。
また、村内には嘉永年間(一八四八~五四)ころから松代焼きの窯(かま)があった。窯元では毎年村へ煙の迷惑料を納めていた。文化六年の人数は六七〇人、慶応三、四年(一八六七、六八)には家数一七九、人数七三七人で、足軽も三四人いた。