柴村

498 ~ 499

金井山の西山麓(さんろく)、千曲河畔(かはん)に位置する。文明(ぶんめい)年間(一四六九~八七)、上総(かずさ)国(千葉県)の吉池重行が来て開発したといい(『町村誌』)、集落は南の堀ノ内にあったと伝えられる。江戸時代には全村すべて松代藩内の直轄地で、高札場(こうさつば)があった。明暦二年(一六五六)、初代松代藩主真田信之は隠居し、侍五一人など総勢一五三人を引き連れて柴へ移り、娘の見樹院もここに屋敷をつくった。柴には舟着場があったらしく、真田信之も隠居所から海津城まで船で往来したという(『朝陽館漫筆』)。信之の没後大鋒寺が建てられた。

 村高は『慶長打立帳』で一九六石余、『正保郷帳』では一九八石で、「皆畑(みなはたけ)」と記載されており、水田はなかった。そのため川北の小島田へ出作をしたが、作場渡しの維持費にも苦労した。明和四年(一七六七)、柴村では新舟のはぎたて(新造)費用の捻出に困り、諸役の引き下げを願いでた。「洪水で村のよい畑が川欠けとなり、村の地味(ちみ)は従来の半分以下に下がって難渋し、舟のはぎたてもできない。しかし、出作をやめたり作場渡しを廃止しては、伝馬などの公用にも差しつかえ、必需品の藁(わら)なども入手できず、村はさらに難渋するので、お慈悲をもって諸役を下げてほしい」という内容である。嘉永七年(一八五四)の渡し守給は金二分二朱であった。

 千曲河畔にあって水害が多く、寛保(かんぽう)二年(一七四二)の水害では四八軒が流失した。天保(てんぽう)四年(一八三三)には、千曲川に太左衛門船が柴へ乗り入れるようになったが、松代藩船に比較すると利用は少なかった。寛政七年(一七九五)の家数は六〇軒、人数は二八〇人であった。文化六年には二九八人、慶応三、四年には八三軒、四二一人と増加している。入会山があったが、明治四年(一八七一)に割り山をした。


写真6 柴阿弥陀堂の図(明治44年)