もと更級郡小島田村に属したが、千曲川の流路が変わるにつれて、釜屋組と荒屋組が本村と分離して川の東になった。本村とのあいだは、内河原・古城の二筋の作場渡しで結ばれたが、千曲川は大きな障害で、船綱にはねられて死亡した事件も記録されている(『松代藩庁と記録』)。また、寛政八年、下小島田村では、総百姓寄合相談のうえ新頭立の承認を願いでたが、「川向こう(右岸)のものでは急場に間にあわないので本村から選びたい」として承認されている。川欠けの被害などによるものであろうか、文化十三年(一八一六)、下小島田村の郷借金(ごうがりきん)は一四四両余におよび、個人の借金も一八人で合計一一三両におよんでいた。明治二十二年に寺尾村と合併したが、地番は現在も左岸は二〇〇〇番台まで、右岸の釜屋・荒屋地区は三〇〇〇番台からと、明治初年以来の一連番号のままつづいている。