牧島村

500 ~ 500

古くは千曲川の左岸にあって更級郡に属していたが、寛保満水後の流路の変更によって右岸へ変わった。石高は『慶長打立帳』では一八七石で、元禄にも変わらず、『天保郷帳』で二五四石、『旧高旧領』では二七九石と増加している。宝暦三年(一七五三)と六年に検地を願いでている(『松代藩庁と記録』)のは、おそらく千曲川の瀬直しによる川欠けによるものであろう。『正保郷帳』に「皆畑 干損所」と記されたように、「岡どこ」の干ばつ常襲地で、畑作に頼らざるをえなかった。文化六年の人数は二九五人、慶応三、四年の人数は三五三人で、家数は七三であった。

 山林をもたない牧島区では、大室区の北谷の一部(通称中谷)を共同で借用する制度があり、「株山」とよんでいる。牧島区では利用者の年貢をとりまとめて大室区へ渡し、大室区ではそれを地権者へ配当する。年貢は以前は籾年貢であった。現在は区と区の貸借で、双方の区長が引き渡しをしている。かつての入会山の名残であろう。