江戸時代には高井郡で、松代領川東通りに属し、藩の高札場があった。霞城山の出端(でばな)を境として、上室と下室とに分かれる。寛文(かんぶん)六年(一六六六)の史料によると、いわゆる丸抱えの知行で、農民五九人はそれぞれ一人の地頭に所属していた。寛政七年(一七九五)の家数は七〇軒、人数は二七〇人であった。石高は『慶長打立帳』で七九二石、『天保郷帳』では九九九石、『旧高旧領』では一〇五一石と増えている。
『正保郷帳』によると、水田は二一〇石余(二五・三パーセント)で約四分の一にすぎず、大部分は畑であったが、「水損所」と記されたように水害の常襲地で、千曲川沿岸の耕地は出水のたびに冠水・流失を繰りかえした。そのため、沿岸部の丑(うし)新田・寅島・百万遍では江戸時代から割地がおこなわれていた。昭和初期には、畑・原野あわせて一一町六反歩余があり、一〇年ごとに割りかえた。慣行は地域によって異なり、面(つら)割り(戸数割り)と高割りとがあったが、五月に測量をし、六月末日に小麦や桑刈りがすんでから抽選で場所をきめた。地区によっては川欠けの土地だけを入札し、その収益を割り替えの費用にあてるところもあった。割り替えの有資格者は、分家や来住者を除いた古くからの住民だけであった(『信濃』三-七)。
北国街道松代通りが鳥打峠から地域内を通過し、一部は街村になっている。東端の関崎は真島とのあいだに渡しがあり、交通の要地で、峠の登り口や橋ぎわには行路の安全を祈願した石造物が多く残っている。
天保十四年(一八四三)に、松代藩は南部山地の臼(うす)の窪(くぼ)で、鹿狩を実施した。結果に関する記事はないが、おそらく調練を主としたものであったろう。
また、大室村は幕末から明治にかけて三回も大火におそわれた。安政二年(一八五五)三月十二日には一一一棟を焼き、明治十年には四一戸、明治四十年には一〇六戸・四百余棟を焼失した。