松代騒動

502 ~ 503

明治三年(一八七〇)末におきた松代騒動は、松代全領から善光寺周辺一帯の百姓数万人をまきこんだ大騒動であった。藩札と太政官(だじょうかん)札の等価引き替えなどを要求する一揆(いっき)勢は、十一月二十五日の夜上山田村を出発し、二十六日の朝、松代城下へ突入した。一揆勢は木町の産物会所や加賀井村(東条)の高野広馬宅を焼き、大英寺で藩主から、要求を聞き入れるという証文を得て夕方までには帰村した。川東地区の状況は明確ではないが、以下監手(係官)の報告書によってみる。

 千曲川の川西を北上した一隊数百人は綱島・大塚・真島をまわり、関崎の渡しを渡って大室村へ押し寄せた。大室村では二、三百人が酒屋と名主宅へ押し寄せて酒や炊き出しを強要し、「出ろや、出ろや、出ねえ家へは火をかけるぞ」とおどした。大室村では、「家ごとに大部分は出たようす」(報告書)で、いちおう一揆に参加したらしい。一揆は大室から北上し、川田・東川田の村々から八町(はっちょう)村・小河原(おがわら)村・福島(ふくじま)村(須坂市)などを誘引したと報告しているが、大室から直接松代へ向かったものもあっただろう。牧島の要兵衛は、「二十六日朝五ッ半時(午前九時ころ)ころ、大室のほうから大勢のものが松明(たいまつ)をもって騒ぎながらやってきた。しかたなく一揆に加わり、松代の菊屋で酒を飲み、丁字屋で二階の板を突き上げたのは覚えているが、あとは記憶がない」と申したてている。

 いっぽう、大室から北上した一隊は二十七日の朝五ッ時(午前八時ころ)、東寺尾村へ押し寄せたが、このときは武装した藩士たちにはばまれ、説諭されて引き返した。寺尾地区内からも以上のように多くのものがこの騒動に参加したと思われるが、首謀者に類するものはなく、徒刑以上の罰を受けたものはいなかった。