松代焼きとは松代近辺でつくられる陶器の総称である。主として実用品であるが、年代や窯(かま)の場所によって種類もいろいろある。寛政年間(一七八九~一八〇一)、東寺尾村の嘉平治という人が愛宕山麓(あたごさんろく)の名雲で焼きはじめたのが近在での始まりで、これは主として素焼きの藍(あい)がめだったという。文化十三年(一八一六)には藩営事業となり、上村何右衛門が信楽(しがらき)(滋賀県甲賀郡信楽町)から陶工を招いて焼かせ、寺尾焼きとよばれた。文政年間(一八一八~三〇)には、荒神町境の舟会所の近くに荒神窯が築かれ、しだいに一般にも売れるようになった。弘化三年(一八四六)には東寺尾屋敷区に田中銀兵衛が山根窯を築いた。これ以後民間人による窯が方々につくられるようになったが、中心となったのは東寺尾地区であった(『信州松代焼』)。
嘉永七年(一八五四)、荒神窯の煙が近隣の東寺尾村へ迷惑をかけるという問題がおきた。けっきょく役人が仲介し、窯元では、一年に三窯までは三両二分、四窯以上の場合は一窯につき一両ずつを東寺尾村へ支払うこととし、愛宕(あたご)山など村内の土の使用についてもとりきめ、村へ示談書を出した。明治十二年の『町村誌』では、東寺尾村の物産は、「陶器、その質堅剛にして民用に便なり。甌(かめ)六〇〇、摺(す)り鉢一二〇〇枚、紅鉢(べにばち)一二〇〇枚、大小片口(かたくち)一二〇〇枚、大小徳利(とっくり)二五〇本、その他雑器」と記されている。主として実用品が生産された。
また屋根瓦(がわら)も江戸時代の末には、一般に使用されるようになり、福徳寺の裏に瓦師(かわらし)の窯ができて焼かれるようになった。海津城の大御門のしゃち瓦も東寺尾で焼かれたという。さかんになるにつれて、煙を火事とまちがえて早鐘をつくというような事件もおきた。