寺尾村の石材は、金井山と大室山のものが知られている。金井山一帯の石は安山岩で柴石とよばれ、天保年間(一八三〇~四四)から採取が始まり、嘉永ころにはさかんになり、柴石運搬舟の運航願いも残されている。明治二十年ころからは石材業に従事するものが増え、鉱区の総面積は二〇町歩におよび、主として碑石・墓石などに利用された。千曲川堤防工事が始まると、補強材として利用され、一時は金井山駅から南山まで引き込み線を設置したり、牧島の渡船場から千曲川を舟で飯山方面まで送るほどの盛況であった。昭和八年(一九三三)ころには繭価の暴落から家庭用途が減ったが、第二次世界大戦後ふたたびさかんになり、遠く北陸地方や米軍の立川基地(東京都立川市)まで運ばれたという。昭和三十二年には、採掘面積約五〇町歩、事業主二二、作業員一〇〇人を数えた(『松代公民館報』)。戦後は建築材・河川改修工事のほか道路工事用の需要が急増している。しかし、近年はダイナマイトの利用が制限されたため、墓石などの大型石材の採集は減り、かわって骨材用などの砂石の採集がさかんになり、採取場所も大室地区の奥や鳥打峠の上などに広がっている。
大室の霞城山の石も大室石とよばれて早くから採取された。大室石は扁平(へんぺい)なものが多く、セメントが発明されるまでは、家屋の上台石・飛び石・敷石などに利用が多かった。『町村誌』には、「霞城山の割り石、日々三五〇貫を産出する。幅一尺、厚さ五寸、長さ三尺、一人持ち二〇貫の石を舟で隣郡隣村へ出す」と記されている。
採石は寺尾村の代表的な産業の一つで、寺尾小学校の校章も石材のデザインである。