近世以前の古道は、大室から可候(そろべく)峠を越え、地蔵峠をぬけて小県(ちいさがた)方面へ通じていたが、慶長十六年(一六一一)に、北国街道が開かれ宿駅が整備されるにしたがって、屋代から松代・川田や神代(かじろ)(豊野町)をへて牟礼(むれ)宿(牟礼村)へ通じる松代通りも整備された。俗に雨降り街道ともよばれ、松代・川田・福島・長沼・神代は松代通り五宿とよばれる宿場であった。東寺尾は松代城下の東の入り口で釘貫(くぎぬき)門の木戸があった。嘉永元年(一八四八)の沓野(くつの)(山ノ内町)騒動のときは、押し寄せた一揆(いっき)の先頭集団はここで取り押さえられ、明治四年(一八七一)の松代騒動でも二十七日に城下へ入ろうとした一揆は武装藩士に説得されてここから引き返した。蛭(ひる)川には逢(大)橋(現蛭川橋)がかかり、藩費で維持されていた。東寺尾からは、寺尾渡し・柴(しば)へ行く道が分かれる。右の山道は鳥打峠を越えて大室へ通じていた。明治九年、谷街道として県道に指定された(『松代町史』)。明治初年の道路の幅は二間(約三・六メートル)であった(『町村誌』)。