千曲川通船は、寛政二年(一七九〇)、西大滝村(飯山市)の斎藤太左衛門によって、西大滝-福島(須坂市)間にはじめて運航した。当初は利用はさほど多くはなかったが、商品流通が活発化するにしたがって文化年間(一八〇四~一八)ころからしだいに増加した。文政四年(一八二一)には、松代藩が飯山-松代間に藩営の通船の運航を始めた。また蛭(ひる)川を利用し、大橋の一町ほど下流から東寺尾まで幅二間の運河を引いて舟が引き上げられるようにし、東寺尾には川船会所を置き、船着場や藩の御蔵も建てた。この運河の開削には人夫一万人を要したという(『松代町史』下)。
藩船は三五駄積みのもの二艘(そう)で、乗員は六人だった。上りには引き船をしたり、帆を利用したりした。飯山まで下りは一日、上りは四日であった。輸送量はしだいに増えて、天保年間(一八三〇~四四)には三〇〇〇駄におよんだが、ほとんどは上り荷で、そのうち塩がもっとも多く、全体の約四分の一を占めた。塩・米・魚・乾物・茶・木綿・油・菜種などが運ばれた。塩は瀬戸内のもので、越後(新潟県)の今町湊(いままちみなと)(上越市直江津)から富倉(とみくら)峠を越えて飯山へ運ばれた。下り船には地元の産物が乗せられたが量は少なく、六〇~一〇〇駄にすぎなかった。太左衛門船も天保四年(一八三三)には柴浦河岸へ乗り入れを始めたが、輸送量は松代藩船にはおよばなかった。船着場あとは東寺尾と荒神町の境(萬法寺の裏)にあり、戦前までは掘割りの跡や塩の小屋も残っていた。