水害

510 ~ 510

千曲川・犀川と二つの大河の合流点に近い氾濫原(はんらんげん)に位置するため、古くから水害をうけることが多かった。なかでも、寛保(かんぽう)二年(一七四二)の戌(いぬ)の満水では、寺尾地区は柴をはじめ全地区とも大きな被害をうけた。「松代満水の記」によると、流失・決潰(けっかい)の家数および流死人数は、東寺尾七五軒・一人、柴四〇軒・七〇人、大室四一軒・六人、牧島三二軒・二人で、合計一八八軒・七九人におよんだ。そのほか大室では道三〇〇間水破、牧島では田畑多数砂入りと記されている。大鋒寺(だいほうじ)では、「本堂のほか諸堂残らず大破し、総囲いの土塀をはじめ大門の松や杉など五、六本も流される」という状況であった。

 近代になっても、千曲川の洪水は少なくない。明治三十一年(一八九八)の水害では、「柴字荒神窪堤大破し、大室の人家はすべて浸蕩(しんとう)せり」(『信毎』)という被害をうけた。明治四十三年の大洪水でも、寺尾村は松代町・清野村につぐ大きな被害をうけ、家屋損壊五七戸、床上浸水五五八戸、死者一人を出した。『埴科水害誌』には、「(寺尾)全村浸水、流失家屋六戸、田畑は山部を除くの外全部浸水」という状況で、松代警察署では「(寺尾村は)部内第一の被害」と報告している。「被害後における状況は実に惨害を極め、全村にわたって田畑の被害はもっとも甚だしく、秋蚕児はすべてこれを棄却し、耕作中の農産物は半ば以上皆無となり、浸水後数日間にわたって他よりの供給を受けなければ一滴の飲料水をも得ることはできなかった」と記された。東寺尾区では、大雨になると、愛宕(あたご)山へ登って千曲川の流れの状況を見ては避難の準備をしたという。