千曲川改修工事は大正七年(一九一八)から内務省の直営工事としておこなわれ、昭和十六年に完成した。柴区では阿弥陀堂のほか民家も一〇軒ほど移転を余儀なくされた。またこの工事にともなって東寺尾の蛭川尻の水門工事が必要となった。総工費二万三三〇二円におよぶ大工事で、大正十四年から昭和二年にかけて実施された。主な支出は鉄材五一九二円、セメント三六一八円、木材三二五二円などで、ほかに聞知(けんち)石二〇五二個、土運搬三八五七立方尺などであった。石材は金井山から切りだされた。
千曲川堤防工事の完成によって、沿岸での堤防決壊による水害は少なくなったが、出水のさい逆流よけの水門を締め切るため蛭川・藤沢川などの下流の低湿地では冠水・湛水(たんすい)による被害が多くなり、その後も改修工事が繰りかえされた。