寺尾村では、昭和十二年(一九三七)七月から同二十年まで、第二次世界大戦中の動員回数は二〇三回に達し、応召人員は五四四人にのぼった。そのうち戦病死者は一三一人以上におよんだ(『松代町史』)。
寺尾国民学校では生産教育の一環として軍需品としてのうさぎの飼育に取りくんだ。最盛期には二五〇頭に達し、戦時教育の一つの模範として他校からの参観者が多かったという。また、食糧増産のため千曲川沿岸などで約四町歩が児童らの手によって開墾された。しかし、昭和二十年には戦争の激化にともなって、寺尾小学校には東部軍の部隊が駐屯し、教室や体操場を使用するようになった。