畑地灌漑と野菜栽培

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「岡どこ」の寺尾地区は干害の常襲地で、とくに自然堤防上にある柴・小島田・牧島の被害は大きく、また栽培作物も限られていた。この地域にとって、昭和三十年代の畑地灌漑(かんがい)施設の導入は画期的な転機となった。昭和三十一年(一九五六)に、柴地区では新農村特別補助事業を導入し、機械揚水によるスプリンクラーを設置し、荒廃地の開畑に成功した。地下水は鉄分が多くて使えなかったので、金井池を水源とした。これによって、それまで、さつまいもと大麦くらいしかできなかった畑で、なす・トマト・きゅうりなどが収穫できるようになった。三十二年には大室でも設置された。いずれも埴科地方ではきわめて早い時期の畑地灌漑施設の設置であった。牧島地区では昭和五十一年に畑作改善モデル施設としてスプリンクラー設置工事が竣工した。小島田地区では個人設置が多い。柴の西原には「畑地撒水(さんすい)灌漑施設完成記念碑」(昭和三十二年建立)、牧島には「牧島畑地灌水(かんすい)施設竣工(しゅんこう)記念碑」(昭和五十一年建立)が立っている。

 昭和三十五年、寺尾地区では耕地面積のうち畑地は大部分の八八・六パーセントを占め、桑園のほか麦・さつまいもが主力であった。その後野菜が急増し、長いもも特産物として知られた。近年は長いもが減少し、かわってキャベツ・白菜・ほうれん草などの野菜類やブドウ(巨峰)の栽培が増えている。


写真11 牧島の畑地灌漑施設竣工記念碑 後方の鞍部は鳥打峠