地下揚水と開田

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寺尾地区の昭和三十五年の水田率は一一・四パーセントで、埴科郡ではもっとも低かった。水田はわずかに東寺尾と大室にあるばかりで、この二地区では米はほぼ自給されたが、他地区では水田はまったくない。麦をふくめても昭和二十六年度の米麦の生産量は村内需要のわずか二ヵ月分を満たすにすぎなかった(『信毎年鑑』)。そのため、戦後千曲川から引水して、坂城町から大室まで埴科郡下を縦断する埴科用水の布設が計画され、上流では着工したが、畑作物の好況や米の減反政策などもあって、松代地区は脱退し、引水計画は中断した。

 大室東沖地区では、昭和二十二年大室水利組合を結成し、掘井戸による水田開発に成功した。この地域はまったくの天水地域で、わずかな湧水を溜(た)めて灌漑していたが、これによって既成田への灌漑が安定し、畑から水田への転換もおこなわれた。昭和五十九年、井戸の改修と水路の改良工事を完了し、記念碑を建立した。