文化六年(一八〇九)には一二〇〇人余であった人口は、明治時代に入って徐々に増加し、明治二十二年(一八八九)には二二〇〇人余となり、この八〇年間で約一〇〇〇人の増加がみられた。大正七年(一九一八)には二七〇〇人余になったが、昭和に入って徐々に減少の途をたどり、太平洋戦争へ突入する前年の昭和十五年(一九四〇)には二〇〇〇人余になった。しかし、敗戦直後の同二十二年には一気に二七〇〇人余へと急増した。これは中国大陸からの引き揚げや、国内から郷里へ帰郷してきたことなどと関係があろう。昭和四十年代の高度経済成長期には都市部への人口流出がみられた。同五十五年以降の世帯数の急増加は、五十一年に長野県警察学校が開校されたのをはじめ、徐々に住宅も建設されてきたのが主な理由である。最近の経済の低迷や人びとの考え方および生活形態の変質・変化にともなって、わずかではあるが人口の増加現象がみられるようになった。