英多荘と西条

529 ~ 529

松代町一帯が英多荘に比定されている。この英多荘の初見は、文治(ぶんじ)二年(一一八六)三月の「信濃国乃貢未済庄々注文」で、殿下御領とある。同荘は元永(げんえい)・保安(ほうあん)年間(一一一八~二四)関白藤原忠実の所領であったが、のち近衛家に伝領された。延久(えんきゅう)二年(一〇七〇)に荘園整理令が出されているが、それ以前に荘園として成立していたと思われる。建長(けんちょう)五年(一二五三)十月、藤原兼経が官に注進した「近衛家所領目録」によると、英多荘は冷泉(れいぜい)宮(三条天皇の皇女、藤原信家の室)領で地頭請所(うけしょ)となっている。同荘が地頭請所になったのは、承久(じょうきゅう)の変(承久三年、一二二一)以後のことであろう。永禄(えいろく)十二年(一五六九)西条氏による中村神社社殿の再建のおりの棟札に「信州埴科郡英多邊庄西條大國大明神社」とある。一六世紀中ころの西条は、古代英多郷に条里的地割が導入され成立した西条を受け継いで、変質しながら荘園制下の西条へと発展してきたと考えられる。