西条氏の所見は、永享(えいきょう)十二年(一四四〇)の「結城(ゆうき)陣番帳」で、二八番次に、寺尾殿らとともに西条殿が見える。また、西条大和守経春が文正(ぶんしょう)二年(一四六七)正月と文明(ぶんめい)十六年(一四八四)正月にそれぞれ諏訪上社の神使御頭役を勤めている(「守矢満実書留」)。少なくとも西条氏は、永享年間以前から居住していたと思われる。慶長三年(一五九八)、秀吉は上杉景勝の会津転封を命じ、西条氏は上杉氏にしたがい会津に移った。『更埴地方誌』③では表組あたりに居館があったと推定している。また、市場には「堀之内」「馬場」「くね添」「屋敷田」などの地名が残っていることからして、この地域内にあったとの説もある。
このほかの遺跡に、のろし台跡がある。これはノロシ山の山頂にあり、川中島合戦のおり狼煙(のろし)をあげて甲州の武田氏館に連絡した台跡であると伝えられている。