一 神社

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 中村神社 中村 ①祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)、相殿大国主命(おおくにぬしのみこと)、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、素盞嗚命(すさのおのみこと) ②由緒 伝えによると、古くは高遠山中腹の宮ノ平にあったが、やがて現在地に移ったといわれている。永禄年間(一五五八~七〇)の兵火で、本殿、拝殿、社庫等すべて焼失してしまい確実なことはわからない。永禄十二年西条裕直が大檀那として社殿を再建したおりの棟札(むなふだ)に「信州埴科郡英多邊庄西條大図大明神社頭造営」とあり、西条氏の庇護(ひご)をうけていたことが知られる。そのころは大国主命が主神であった。元禄年間(一六八八~一七〇四)の書上には諏訪社と称され、宝暦九年(一七五九)の同書には中村神社大明神宮と記されている。拝殿、社務所、神輿(みこし)仮殿、宝蔵庫がある。境内に八幡社がある。例祭は十月三日。


写真3 延喜式内社の中村神社

 白鳥神社 東六工 ①祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)、貞元親王、貞保親王、武靖大明神等(真田氏合祀(ごうし)) ②由緒 本社は小県郡東部町海野の白鳥神社で、代々真田氏が崇敬し、家祖を合祀してきた社である。承応(じょうおう)二年(一六五三)真田氏は、東部町の白鳥神社を松代に分社して本殿を建設し、社領一〇〇石を寄進した。文化十年(一八一三)七代藩主真田幸専(ゆきたか)は、社殿を再建するにあたり藩祖真田信之の霊を合祀した。明治三十一年(一八九八)県社に昇格。昭和二十六年(一九五一)真田家中興の八代藩主幸貫(ゆきつら)の没後百年祭のおり、信之以後明治にいたる歴代藩主の九柱を合祀し、現在にいたっている。社殿は拝殿六坪、神饌(しんせん)所一六坪、社務所がある。その他絵馬殿、神廐、神官詰所などがある。木造神馬は、立川流二代の和四郎富昌の作で、立川流彫刻の傑作といわれている。昭和五十三年三月二十五日長野市文化財に指定。例祭は十月三日。

 諏訪社 欠 ①祭神 建御名方命 ②由緒 伝えによると欠村の産土神(うぶすながみ)であったが、のち諏訪社となる。同村に住した県氏の鎮守の宮である。承久(じょうきゅう)三年(一二二一)の承久の乱のとき、県左近将監(さこんしょうげん)は武運を同社に祈願して上洛し、同年六月十四日宇治橋の合戦において武勲をあげた。代々英田(県)殿と称し、また、出羽守とも号した。同社の祭主であった。境内には古峯社がある。例祭は九月二十三日。


写真4 欠組の諏訪社

 稲荷社 表組 ①祭神 豊受大神 ②由緒 享保年間(一七一六~三六)四代藩主真田信弘は、江戸の今井屋敷内に鎮守として祭ってあったものを海津城に遷座した。さらに享保八年、西条村の恵明寺塔頭不二庵(たっちゅうふじあん)に移して奉祀した。信仰が篤かった八代藩主幸貫は、京都の吉田家へ請願して正一位随護稲荷大明神の称号をうけた。文政九年(一八二六)火災で焼失、不二庵はそのまま廃絶したが、幸貫は現地に社殿を建立した。拝殿一五坪、社務所二〇坪、宝庫五坪がある。例祭は四月十七日。