二 寺院

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 西楽寺 浄土宗 十二原 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 関谷山③由緒 寺伝によると、創建は応永年間(一三九四~一四二八)関屋の領主関屋上野介(こうずけのすけ)が開基となり、開山は武蔵国増上寺初代住持酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)であると伝える。永禄のころ、西条美作守(みまさかのかみ)と村松土佐守の両氏が帰依し、天正(てんしょう)二年(一五七四)現在地に寺堂を建立して中興開基となり、鎌倉光明寺の名誉(みょうよ)善室を請(しょう)じて開山とし、西楽寺と号した。また、同寺は天正二年に創建され、西条尚昭が開基となり、開山は称蓮社名誉善室和尚であるとの説もある。正保(しょうほう)年間(一六四四~四八)火災にあったが初代藩主真田信之が再建した。慶安元年(一六四八)信之の三男信重が死んで、その菩提を弔うために堂宇をさらに建て、あわせて信重の霊屋(たまや)を建立した。真田氏は回向(えこう)料として年々四〇俵を寄進し、明治維新にまでおよんだ。信重の霊屋をはじめ前机一脚、釣灯龍(つりどうろう)二個などが、昭和四十六年六月二十二日重要文化財に指定された。


写真5 西楽寺本堂

 清水寺 真言宗豊山派 西六工 ①本尊 千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ) ②山号 龍燈山 ③由緒 寺伝では、大同(だいどう)年間(八〇六~八一〇)征夷大将軍坂上田村麻呂が東北征討のおり戦勝祈願として建立したことに始まり、開山は高野山金剛峯寺の僧寛空で、十二原に堂宇を備えたと伝えている。また一説には、古くは観音堂で鹿島の山麓の地にあったが、再度の火災により現在の地に移ったとも伝えられている。永禄年中(一五五八~七〇)西条の領主西条美作守の帰依、また武田信玄の永一貫五〇〇文の寄進、貞享(じょうきょう)二年(一六八五)幕府から一〇石の寄進など、時々の権力者からの庇護(ひご)があった。本尊の木造千手観音菩薩立像と木造観音菩薩立像・同地蔵菩薩立像の三体が、昭和十二年(一九三七)八月二十五日国宝に指定され、現在は重要文化財になっている。いずれも平安初期から中期にかけてのすぐれた作品である。そのほか木造毘沙門天(びしゃもんてん)像は昭和四十二年十一月一日市指定文化財に、木造薬師如来立像は同四十四年十月二日県宝に指定されている。仏殿は同二十八年六月に落成した。

 法泉寺 曹洞宗 表組 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 正眼山 ③由緒 開基は清野入道清寿軒の弟西条治部少輔で、開山は勅特賜仏光円明禅師節香徳忠(せっこうとくちゅう)で、永禄七年十一月二十五日開堂した。徳忠は、弘治(こうじ)元年(一五五五)に更埴市森の禅透院の開山となった人物でもある。安永七年(一七七八)火災をこうむったが、翌八年には本堂が再建され、一八世密庵義玄が諸堂を復興し中興となった。二〇世大勇和尚の求めた縮刷一切経は貴重なものである。庫裏は明治二十七年(一八九四)再建、経堂は同三十年来福寺の玉井権右衛門の寄進で建立された。鐘楼は大正十二年(一九二三)高村光雲が手掛けた。昔から「日陰の紅葉の法泉寺」と親しまれた。禅透院とともに北信における貞祥寺派の寺として重きをなした。

 開善寺 真言宗智山派 東六工 ①本尊 地蔵尊 ②山号 金剛樹山 ③由緒 寺伝では、小県郡海野郷海善寺に貞観(じょうがん)年中(八五九~八七七)に創建されたと伝える海善寺が祖廟(そびょう)であるとしている。元和(げんな)八年(一六二二)真田信之が上田から松代に移封(いほう)のとき、房山(ぼうやま)(上田市)に移してあった海善寺を祈願所として松代に移した。その後、小県郡本海野村(東部町)にあった白鳥神社を松代に分社するにあたって、海善寺を同社の別当寺とし、現在の地に建立して開善寺とした。歴代藩主の祈願寺となり、慶安二年(一六四九)には寺領五〇石が朱印地として安堵(あんど)された。寛保(かんぽう)二年(一七四二)の千曲川の大洪水で松代城が冠水したとき、同寺が藩主の避難先となった。山腹にある経蔵は、万治(まんじ)三年(一六六〇)建築の方三間宝形造り茅葺(かやぶ)きで、天海版一切経六三二三巻を納めている。昭和四十一年十月三日、経蔵とその建立を示す棟札(むなふだ)(万治三庚子(かのえね)年の銘)が県宝に指定された。


写真6 開善寺の経蔵(県宝)

 乾徳寺 曹洞宗 笠村 ①本尊 釈迦如来 ②山号 照光山 ③由緒 真田信政が明暦(めいれき)二年(一六五六)沼田(群馬県沼田市)より松代へ入封のとき、僧改愚をともない、二男恪守の菩提を弔うために一寺を建立するための準備として、馬場町に庵室を建てた。数年ののち、これを現在の地に移し雲龍山照光寺と称したが、改愚が遷化(せんげ)してから廃寺同様になった。元文(げんぶん)元年(一七三六)十二月真田信弘(乾徳院)が死去したとき、長国寺一四世密峰は信弘の冥福を祈るために、照光寺を取りつぶし、その地に新たに寺を建立して照光山乾徳寺と号した。これにより乾徳院を開基とし密峰を開山とした。五代藩主信安は乾徳院の茶湯料として一〇石余を寄進した。

 恵明寺 黄檗(おうばく)宗 表組 ①本尊 釈迦如来 ②山号 象山 ③由緒 開基は三代松代藩主真田幸道で、延宝(えんぽう)五年(一六七七)六月堂宇を建立し、寺領五石を寄進した。開山は武蔵国白銀瑞聖寺(しろがねずいしょうじ)から招聘(しょうへい)された良寂和尚が就任の予定であったが、良寂は先師黄柴山二世木庵性瑫(もくあんしょうとう)を尊んで師を開山とし、みずからは二代と称した。初代藩主真田信之の娘が地蔵堂を建立、地蔵尊一体が寄進された。貞享(じょうきょう)四年(一六八七)真田家より寺僧の養米として年々籾(もみ)一〇〇俵が寄進された。文政八年(一八二五)仏殿より出火し、開山堂・庫裏・鐘楼などを失った。天保(てんぽう)四年(一八三三)真田家により再建されたが、弘化五年(一八四八)強風にあい、庫裏は倒壊してしまった。余材を集めて建立したのが現在の建物である。