西条村は、森検地で一二五九石余と定められ、埴科郡内では大村に属した。分村をもつ村々があるが、慶安二年(一六四九)の「松代御領分村々高附分村明細帳」によれば、西条村は里方でありながら、同郡内ではもっとも多い一六分村を有していた(河原村・市場村・神田川・表村・中村・宮田村・鹿島村・筒井村・上ヶ沢村・新御安口・水上村・柴丁上之内・竹山裏丁・竹山地堂・欠村・中条村之内欠村)。
藩政治を支える組織のなかに足軽(同心)家臣集団がある。松代藩は、その採用に当たり城下町周辺村の農民(本百姓)のなかから採用した。慶応二年(一八六六)の「御足軽住所帳」によれば、在郷足軽は六〇三人で、六一ヵ村にわたり分布している。このなかで西条村の足軽は一二〇人で、他の村々を圧倒している。平常の勤務内容は、鉄砲組・弓組・長柄(ながえ)組・旗組など軍事編成の中心となること、江戸詰や各奉行の下で勤めることなどであった。幕末には京都警護や戊辰(ぼしん)戦争に動員された。また、足軽の事務割番所で大鐘を撞(つ)いて町内に時を知らせた。
西条村の足軽身分にも階級が形成されてきている。その例を「御足軽住所帳」からみると、長柄組長沢権右衛門の同心の西条村岸田鉄治は、歳は四四で、同氏名の右上に「永苗字(えいみょうじ)御免」と記されている。また、同組の真田図書(ずしょ)の同心、西条村の丸山柳太郎は三二歳で、同氏名の右上に「永苗字一代上下(かみしも)御免」とある。その他、肩書の表記には「一代苗字上下御免」「一代上下御免」など、一〇階級の区分があり、それらの肩書はそれぞれの特権を意味している。同村の足軽のなかには、このような特権を有するものが他村にくらべて多かった。足軽の職は世襲制で、ときには養子縁組により相続することもあった。また、足軽株が金銭で譲渡売買される場合もあった。当時、町外町(ちょうがいまち)といわれた同心町が足軽の居住地であった。