信濃における戊辰戦争の最大の戦いは、慶応四年(一八六八)四月飯山城をめぐっての飯山戦争である。信濃諸藩は政府軍に加わり、奥羽越(おううえつ)列藩同盟側とのあいだに攻防戦を繰りひろげた。信濃諸藩の中心は松代藩で、兵員一四八七人を出した。『真田幸民(ゆきもと)家記』の同年六月二十一日の条には「三番の小隊、八番の狙撃隊は大垣藩に代わって、亀崎の砲台を守った。両軍の激しい攻防があった。二十三日の夕暮れより賊軍の発砲が激しくなり、これにたいして松代藩兵は果敢に応戦した。戦いは徹夜におよんだ。兵士は三昼夜にわたり眠ることもできず、その苦労はたいへんなものとなった。この間の戦いで、賊の戦傷者は枚挙にいとまがないほどであった」と記している。この戦いで、西条村の二番小隊の藤田金蔵は、越後魚沼郡三仏生(さんぶしょう)村(新潟県小千谷市)で同年六月二十一日に戦死した。同年七月二十四日から二十六日にかけての戦いも激戦であった。七月二十五日の戦いで、西条村の栗林吉弥が戦死した。ちなみに北越戦争で、松代藩では五二人の戦死者を出した。新政府軍の戦死者は七七四人、奥羽越列藩同盟側の戦死者は六五七人であった(『復古記』)。