慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の「川中島四郡検地打立帳」によると、西条村は高一二五九石余で、埴科郡内で三番目の石高をもつ村である。元和(げんな)八年(一六二二)真田氏は上田から松代に入封(にゅうほう)したとき、竿入検地はおこなわなかった。その後、藩は寛文(かんぶん)六年(一六六六)に指出総検地をおこなっているが、森検地を踏襲し石高も同じであった。元禄十五年(一七〇二)に完成した「信濃国郷帳」によると、西条村は高一四〇四石余となり、一四五石余の増加となっている。藩の新田開発の推進もあり、西条村も新田開発をおこない、新田村や支村の成立をみたと思われる。明治元年(一八六八)明治新政府に提出した旧高旧領に関する報告書には、西条村は高一八一六石余とある。元禄十年とくらべて高四一二石余の増加である。