江戸中期におこなわれた幕府の寛政改革(一七八七~九三)は農村の復興をあげ、土地開発を重要視している。寛政十一年(一七九九)四月、藩は領内の村々に畑地を田地に転用すること、荒地を無断で開発することを禁止した。その理由は「田地となった地所が水帳に登録されていないので問題である。田地に開発されれば、用水が必要である。その結果、古田にも差し障わりが出る。それに、用水不足となり、年々、不作が起こる要因となる」としている。現実の問題として、夏期になるとしばしば城下は水不足に苦しんでいた。そこで藩は、城下用の用水を利用している九ヵ村にたいして荒地開発の禁止を申し渡した。その主旨は「神田川、関屋川、藤沢川は城下第一の用水の水元である。最近、畑地や荒地を開発し、田地に直し、猥(みだ)りに、用水(川)から田地に引き落としている。旱魃(かんばつ)の時はもちろんで、このところ毎夏、城下に用水が届かぬことあり、はなはだ遺憾である。したがって、荒地・田畑の開発は禁止する」との内容である。同年十月には、牧内村をはじめとする四ヵ村はこの主旨を理解し、連盟で請(うけ)証文を代官所に提出している。西条村は、藩が城下第一の用水の水源であると主張する神田川を上・中流域で、また、関屋川を中・下流域でそれぞれ利用している村である。西条村は、この四ヵ村の連盟には加わらなかった。その理由は記録には記されていないが、村単独で請証文を出したか何らかの対応が講じられたのであろう(『松代藩災害史料』六)。