西条御林の運営

543 ~ 544

嘉永五年(一八五二)の松代藩の「御林絵図」には、藩内に御林が二六ヵ所あったことが記されている。埴科郡内には六ヵ所あり、西条御林はその一つである。御林は藩直轄林で、藩用の材木の育成と伐採が目的で、この維持管理のために、藩に小奉行、村に御林見を置いた。元治(げんじ)元年(一八六四)西条村では二人の御林見がその任に当たっている。御林の材木は享保(きょうほう)二年(一七一七)の湯本火事のあとの復興のために、大量に切りだし城下再建に使用された。また、安永九年(一七八〇)松木八〇本が神田川の砂防工事用用材として、上平御林(埴科郡坂城町)から切りだされ使用されたなど、領内の村々の用水普請、川際護岸普請、非常災害用、村宿の役所用などの材に用いられた。藩は欅(けやき)・杉・桐・槐(えんじゅ)・檜(ひのき)などを「御用木」と称し、これらの木をみだりに伐採することを禁止した。やがて、木を伐採するものは、薪・柴・雑木を除いて、私有の山林、寺社の境内、領民宅地四壁の木にいたるまで、道橋奉行の許可がなければ切ることができなくなった。