明治五年、富岡(群馬県)にフランスの製糸器械の導入による官営富岡製糸場が開業した。同製糸場は三〇〇人繰りの大工場で、全国から女工を募集したが、なかなか集まらなかった。その理由のひとつに、伝習工女は「生血を採られる」「油を絞られる」などのうわさが流されていたことがある。長野県では、一区に付き一六人、一三歳より二五歳までの女子を富岡製糸場に出すべしとの示達を出した。松代の区長横田数馬はその職責上から娘の英に志願を説き、その影響もあって一六人の女子から願書が出された。英は『富岡日記』のなかで、祖父が「たとえ女子たりとも、天下の御為に成る事なら参るが宜しい」といって励ましてくれたことに「私の喜びはとても筆には尽くされません」と記している。
明治七年八月、東六工に器械製糸場・六工社が創設され、操業を開始した。六工社の規模は、敷地は六〇〇坪、五〇人繰りで、動力は銅製蒸気製糸汽鑵(きかん)を使用する製糸場で、総工費は二九〇〇円であった。同年七月、富岡製糸場から帰った英らは、六工社で技術指導者として働くことになる。同社の創設者は八人で構成され、そのなかの六人は松代藩の士族であった。秩禄処分で得た金禄公債証書を抵当として内務省の貸付金を借り入れて、同十年には工場の増築をおこない、五〇人繰りから一〇〇人繰りへと規模を拡大した。
明治二十六年、六工社は組織を改め、西条村の工場と松代町の工場をそれぞれ独立した製糸会社とした。西条村の工場を本六工社と改称し、松代町の工場所は六工社を襲名した。同四十二年、倉科村上原製糸場を買収して倉科工場とし、同四十三年には松代町殿(との)町に繭買入所を新設した。