地蔵峠は、古くから東信と北信を結ぶ最短の道であった。江戸幕府は地蔵峠越えを北国往還道の裏道として位置づけた。松代藩は地蔵峠のふもとの関屋村に口留(くちどめ)番所を設け物資や人を監視した。この街道の利用者は多く、北国往還道の宿場側から、規則に違う往来を見逃しているとして、何度か異議が申し立てられ、ときには訴訟におよぶこともあった。寛政二年(一七九〇)、村民は藩に口留番所の現状をつぎのように訴えている。それによると「この街道は脇道(わきみち)であるから、諸荷物、穀物などの通過は認めていない。関屋口の付近の風聞によると、地蔵峠の峰から街道を外れ、口留番所を通らずに夜中に忍んで西条村に入っているものがいる。問題である」という。藩は口留番所にただしたところ「その通りである」と答えている。藩はその対策として、同番所の足軽を計六人に増員した。また、藩は同番所を通じて西条村の三役へその旨をただした。西条村では、その事実を関係者に当たり調査した結果、「地蔵峠の峰から西条への道は、四八難所といわれており、その道は通らない。しかし、同口留番所の近くを相忍んで通ったことのあるものがいる」との事実が判明した。その後、西条村は村内の砂留場辺に村番屋を設けて、「正規の道を往来するよう指導し、以来、この道を通るものは差留めとする」との請書を名主以下村役人が連署し郡奉行所に提出した(『松代藩災害史料』四)。