寛保(かんぽう)二年(一七四二)七月二十八日から八月一日にかけてこの地方を襲った集中豪雨は、千曲川をはじめその支流河川の氾濫(はんらん)をもたらし、被害は甚大であった。この雨量で神田川の氾濫は激しく、恵明寺前で同川の堤防は押し切られ、同寺の一部や下屋敷は流された。上流で決壊した流水は大河となり、同心町、紺屋町など城下にも浸水した。濁流は開善寺の大門を破壊し、杉木を押し倒して流れた。いっぽうの関屋川は横町の和田屋の前で決壊し、流れが二つに分かれて、通町・馬場町・表柴町が浸水し、千曲川と関屋川の合流地点は入り江のようになった。西条村肝煎(きもいり)の徳右衛門が職奉行所へ出した被害報告書には、「家数二六軒のうち一一軒が押し流され、四軒が半潰れ、一一軒が土砂に埋まる被害をこうむった」と記している。
その後、寛延(かんえん)元年(一七四八)に九月十八日の豪雨による関屋川・神田川の氾濫があった。また、文化四年(一八〇七)には五月二十九日の豪雨、翌三十日に地震、六月一日夕方よりの集中豪雨で神田川は上流の竹山町で堤防が決壊、関屋川は荒町で堤防が切れて町内に浸水、藤沢川は鋤崎(すきざき)で堤防が切れて田中村の東へと流れを変えた。濁流は滝のようなすさまじい勢いで金井山に向かって突き抜けたと伝えている。明治二十九年(一八九六)七月二十日からの豪雨はなかなか止まず、翌日には関屋川が増水し、豊栄村宮崎組の西岸の堤防二〇間(約三六メートル)が崩壊し、下流の新勝寺付近の堤防も東西両岸が決壊し、城下の町々に浸水した。神田川も氾濫した。
明治二十四年四月二十四日、東条村中条より出火した炎は東南の風にあおられ、またたくまに東条村、松代町、西条村の一町二ヵ村、七百余戸を焼き尽くした。西条村の焼失戸数二九、罹災人口一〇九人であった。