近世末期になると、庶民も教育に関心をもちはじめてくる。『西条郷土誌稿』によると、表組では寛政年間(一七八九~一八〇一)、清野円山が男子のみにたいして読み書き、手習いの塾を始めた。享和(きょうわ)・文政期(一八〇一~三〇)には、倉島忠智が手習いを中心に青年男女に教えた。明治維新(一八六八)前後に小山弥一が読み書きを、年号は不詳であるが、若林大牛が心学を教えている。鹿島では、般若寺の僧沖天が青年男女に読み書きを教えた。沖天は寛政三年に同寺で没している。幕末から明治にかけて北沢小兵衛は中国古典(論語・中庸・書経・詩経など)や地方凡例録(じかたはんれいろく)や手習いを教えた。市場の柄沢行正は明治維新前後に手習いの塾を開いている。欠組では文化・文政期(一八〇四~三〇)、正楽院が夜間に男女を対象に手習いを教えている。同時期、栗林右仲太が夜間に男子に漢学を教えた。
武術もさかんで、入組の松本七十七や六鹿の西村重吉は文化・文政期ころ、男子に武術を教えている。