北信は早くから和算がさかんな地域であった。松代藩では会田安明の始めた最上(さいじょう)流が主流となるが、その祖と目されるのが会田に学んだ松代藩士町田正記(まさのり)である。天明七年(一七八七)西条村に生まれた海沼八十郎義武は、町田正記とともに会田安明の門人となった。会田が文化十四年(一八一七)に『増補当世塵却記(じんこうき)』を上梓(じょうし)したとき、海沼は町田とともに校訂者となっている。藩の勘定吟味役となり、祐筆も兼ねた。能書家で画もたしなんだ。また、鳥打峠の松並木の植樹はかれの指導によると伝えている。著書に『永盛術起源』がある。
中村政昇も西条村の出身で、宮城流の算学を中村仲右衛門盛意に学んだのち、町田正記について最上流も学んだ。文政四年(一八二一)に没した。かれの遺蔵の算学書一四四冊は町田正記の命により、海沼義武が預かった。
寛政七年(一七九五)、西条村に生まれた池田定見は、藩の賄方を勤めるいっぽう、宮城流の算学を中村盛意に学んだ。のち、最上流の算学を町田正記について学び、天保(てんぽう)九年(一八三八)に免状を授与された。また、江川流の中俣(なかまた)左吉について砲術の教えをうけた。池田は規矩術測量法、八法、算法、測用法などの授業をおこない、その門人は二百八十余人という。
会田安明が没して三年後、江戸浅草の浅草寺の境内に、会田安明をたたえる算学塚が建てられた。この塚の裏面に最上流高弟二三人の氏名が刻まれている。そのなかに信州出身者五人がおり、うち二人は西条村出身の海沼義武、中村政昇であった(赤羽千鶴『信濃の和算』)。