養蚕業から多角化経営へ

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近世末期からさかんであった養蚕は、明治初期には六工社に代表される製糸場の創業にともなっていっそう発達した。近代に入って、養蚕および蚕種養育技術の改良などがおこなわれ、増産に関する研究がすすんだ。山の斜面は、可能な限り開墾され桑園になった。養蚕は、農家の現金収入の確保の面で水稲耕作よりはるかに生産性が高かった。敗戦後、農地改革をはじめとし農業経営にたいする考え方も変わっていくなかで、昭和三十六年(一九六一)の農業基本法の成立は、日本経済の基本を工業立国へと転換させた。三十年代後半には中国産の生糸の輸入、農村の労働力不足などで、養蚕業は大きな打撃をうけた。養蚕農家はハウス栽培、果樹栽培、蔬菜栽培、えのき栽培など集約化・多角化農業へとすすんだ。同時に、近郊に新たに職場を得て兼業農家となっていった。

 最近の西条地区の水稲耕作の実態をみると、耕作農家は一〇八戸である。このうち、何らかの形で生産過程の一部でも請負を導入している農家は九二戸で、その割合は八五パーセントである。育苗は五二パーセントを農協が請け負っている。耕起・代掻きは八八パーセント、田植えは九五パーセントを他の農家が請け負っている。水稲耕作農家の耕作面積規模は〇・五ヘクタール未満が一〇七戸で九九パーセントである。米の販売農家は一戸のみで、あとは自家消費用程度の生産規模の農家である。養蚕農家は一〇戸、掃き立て卵量は三八箱である。養蚕業がかつて全盛を誇っていた面影はない(一九九五年『農業センサス』第一巻』)。桑園には杉などの植林がおこなわれている。