昭和三十一年九月三十日、西条村は懸案であった西条財産区の設置について松代町と合意の見通しがついたので同町に編入合併した。同年十二月十二日「埴科郡松代町西条財産区議会条例」が公布され、その運営方針が定められた。それによると、同財産区議会は、西条村内(森野・稲葉・宮野・大梨子・予り・桐山)にある村有林一一八町五畝十二歩を財産区とし、その運営処分にあたる。その運営は財産区議会議員のなかから互選された吉村兵八ほか二人、財産区議会議員の被選挙権を有するものから三人の、計六人で構成された運営委員会がおこなうこととした。
西条財産区となった山林は、古くは西条御林の時代からの歴史があり、当時から西条村がその管理にあたり、地区住民による半義務的な労務の奉仕により維持されてきた。明治二十二年(一八八九)宮野・大梨子の地籍の大半を残して他の山林は、住民に五〇年契約で貸し付けをおこない、村民にも利用されてきた。昭和十五年、その一部を残して村に返還された。戦後は、森林法にもとづいて管理運営をおこなってきた。
昭和三十三年から山林資源の愛護と緑化思想の普及のため、小学校五、六年生による植樹および育樹を毎年おこなっている。四十三年四月二十六日明治百年記念植樹として長野県植樹祭が宮野でおこなわれ、杉四八〇〇本が三百余人の手で植えられた。同四十一年、松代町が長野市に合併したため「長野市西条財産区」となった。