二 郷と荘園

568 ~ 569

 今からおよそ一一〇〇年前ころ、更級(さらしな)郡には九郷があった(『和名抄(わみょうしょう)』)。当地区は九郷のひとつ斗女(とめ)の郷域であったと考えられる。郷はのちにその中心地が今の御厨(みくりや)の戸部付近である富部御厨に属した。「篠ノ井の山布施から布施高田付近が布施御厨で、ふたつ(富部・布施)の御厨が隣接していた。荘園領主である伊勢神宮ではふたつの御厨をあわせて藤長御厨として登録していた。現地での呼称と中央での呼称がずれていたのである(『市誌』②)。この地からは、伊勢神宮の内宮と外宮に毎年上分料(じょうぶんりょう)として布五〇端、長日御幣(ごへい)料日別代として布二丈(約六メートル)を納入した」これは当地の生産力の高さを示している。